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更新日:2022年5月1日
赤穂市内に存在するが、観光案内では紹介されることが少ない隠れたスポットです。
この他にも赤穂には沢山の史跡や遺構、絶景などがあります。
代表的観光コースを外れて、探検気分で探してみては如何でしょうか。
岡山県との境にある古池地区では、江戸時代後期に干拓された塩田跡地が残っています。
江戸期から明治期まで水運物流の拠点であった高瀬舟の発着場跡です。
赤穂上水道の戸島桝から分かれて山裾に沿って加里屋・塩屋・新田の水田の灌漑(農業)用水で、現在も利用されています。
岩の形がライオンに似ているのでライオン岩と呼ばれています。
初日の出の景勝地です。
高雄の切山隧道を掘り抜いて千種川の水を取水し、導水路を引いて城下に水をもたらしました。城下に入った上水道は、地下を網の目のように走り、城内や町家に各戸給水されましたが、その歴史の古さや技術水準の高さから日本三大水道の一つに数えられています。この旧上水道を再現したモニュメントです。
近世初期、西国街道の有年の宿は西播磨有数の宿場町として繁栄した。有年の宿は最初西有年に置かれたが、寛永年間に宿場制度の整備に伴い東有年へと移った。立場は有年の宿を出て西に進み、難所の峠にかかる前にここで駕籠を下ろし、人足・伝馬の休息や交代に使われたところである。この建物は駕籠が軒下まで入るよう、軒が深く縁が狭い作りとなっている点が注目される。
近藤源八宅跡長屋門は「源八長屋」の愛称で親しまれている赤穂城内に残る江戸期の貴重な建物で、平成11年3月に復原整備されました。
城下への入口部分にあったと伝えられる浄水場で、現在の赤穂書房の前あたりと考えられる。詳細はわからないが、およそ二間四方の石枡で、周りに竹柵を巡らして浮遊物を取り除いたという。また、ここでは城下に送られる水量の最終調整を行い、余し水は熊見川(現加里屋川)へ落とされた。いまも常清寺の南を加里屋川へ流れる溝が残る。
神功皇后が三韓征伐の帰りに海が台風で大荒れになり、難破寸前の時、その近くの岩に船を繋ぎ、波の静まるのを願って「祝詞」を唱えられました。するとたちまち波は静まり、船を進めることができたといいます。そのため、この岩を「のりとの岩(ノット)」といわれるようになりました。
旧赤穂上水道の最初の取水口で、俗称切山を約50間ばかり掘削してつくられたもので、慶長19(1614)年から工事を開始し、元和2年(1616)年に完成した。切山掘削という難工事があえて行われたのは、当時の熊見川(千種川)の流路が切山の北側付近につきあたっており、この地点は淵となって水量も安定し、水位もかなり高かったためと思われる。なお、明治時代には中山・真殿からの排水の流量が多くなったため、隧道を拡大する工事が行われた。さらに、昭和38(1963)年に隧道入口と出口がコンクリート擁壁によって壁面を被覆されたが、隧道の内部は往事の姿をとどめており、掘削された岩肌の様子を見ることができる。
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